李拓哉 リ・タッチェ

院長 李拓哉

経歴

  • 平成医療学園専門学校 柔道整復師科卒業
  • 平成医療学園専門学校 鍼灸師科卒業

資格

  • 柔道整復師
  • はり師
  • きゅう師

スポーツ歴・特技

  • 柔道二段
  • 空手初段
  • フットサル
  • バスケットボール

対外活動

  • 平成29年まで 兵庫県フットサルTOPリーグ「DIABLETI」専属メディカルトレーナー

MY HISTORY

左京区が大好きな生粋の左京区民

はじめまして。京都市左京区下鴨、たく鍼灸整骨院の院長李拓哉と申します。
私は京都市左京区で生まれ育った生粋の左京区民です。現在は結婚して家庭を構え、妻と、長男5歳・長女3歳・次男1歳の5人家族です。

自律神経失調症になった小学校時代

私が通っていた小学校は、同級生が私を入れて8人しかいない生徒数の少ない学校でしたが、この頃は毎日サッカーと鬼ごっこ、かめはめ波の練習に明け暮れていました。(かめはめ波が出せると真剣に思っていた時代です)

1人目の先生との出会い

小学6年生の時、あるサッカーの試合中、たまたま観戦していた後輩のお父さんが接骨院の先生で、私の動きや表情を見て母に自分の治療院に一度連れてきなさいとおっしゃったのです。その後、母に連れられ生まれて初めて治療院(接骨院)という場所に行きました。その時に言われたのが、「自律神経失調症」だったのです。

先生や両親の期待に応えなければ・・・
長男だから自分がしっかりしないと・・・

知らず知らず、小学生ながらにすごく無理をしていたんだと思います。首や顔を常に動かしていたり、まぶたがけいれんしたり、パチパチまばたきをしたり、急激に頭が締め付けられうずくまって動けなかったり、朝から身体がだるくて中々起きれなかったり、お腹の調子が悪かったり、ネガティブで神経質。。。
いま思えば、この時が接骨院という場所、治療家の先生との初めての出会いだったのです。

スラムダンクに憧れた中学校時代

中学1年生。
学ランを着た140㎝ほどのチビだった私が、漠然と考えたのが「背が伸びるためにバスケット部に入る!!」だったのです。目標はでっかく180㎝!!いま覚えば無謀な目標でしたけど(笑)。

チビでヘタクソ、シュートもうまくない、3ポイントなんて非力で届かない・・・
そんな私がレギュラーになるためにはどうすれば良いのか・・・

そんな時に出会ったのがバスケット漫画の名作「スラムダンク」

主人公は素人だけど背も高く身体能力抜群。もちろん私は背も高くないし、ずば抜けた身体能力もない。しかし、その主人公のチームにいたポイントガードの宮城が放った「ドリブルこそチビの生きる道なんだよ」という言葉に心を打たれ、それからは毎日毎日朝練にも参加し、ドリブルを磨き続けました。おかげで中学3年生の時にはバスケ部キャプテンに指名され、必死な毎日だったように思います。

この頃の私の中でのスーパースターは、NBAユタ・ジャズに所属していたジョン・ストックトン選手と、日本バスケット界の天才プレーヤーで秋田県立能代工業高等学校の田臥勇太選手でした。録画したテープを毎日擦り切れるまで観ていたのを覚えています。

2人目の先生との出会い

この中学生の時期は特にオスグット病(成長痛)による激痛に悩まされました。正座は痛くて出来ない、一度身体が冷えると痛すぎて走れない。一番つらかったのは和式トイレで屈んでる時でした(笑)。スポーツで有名な整形外科・接骨院にもたくさん行きましたが、サポーターを作らされ、湿布を処方され、アイシングとマッサージをされただけでした。

そんなある日、体育館で練習中、走っていた時に突如膝が崩れてそのまま倒れ込んでしまいました。「やってしまった。絶対骨が折れた。」そう思ったぐらい動けないほどの痛みでした。その時診ていただいた学校の先生が柔道整復師の先生でした。

その先生は少し変わった方で、元々は柔道で有名な選手で学校の体育の先生から校長先生までされた方でした。
現役の体育の先生だった頃に「学生がケガをした時に診てあげたい」という思いだけで、仕事をしながら専門学校に通い勉強し、柔道整復師の免許を取られたそうです。そして定年退職後に、学校のトレーニング室に簡易なプレハブを建て治療室にし、ケガをした学生をボランティアで診てくれていたのです。

その先生に診ていただいたところ、我慢してハードな練習をしすぎたせいで、ひどい剥離骨折(はくりこっせつ)を起こしていたそうです。それからは毎日練習後にプレハブの治療室で治療や指導を受け、なんとか最後の大会までプレイすることが出来ました。
この時が治療家の先生との2回目の出会いでした。

強い男に憧れた高校時代

高校1年生。
身長は相変わらず伸びたといっても決して高くない166㎝。普通に考えれば中学校時代一生懸命頑張ったバスケット部に入るところ。
しかし、小学生の頃のサッカーも中学生の頃のバスケットボールも、一生懸命頑張っても結果が伴わない弱小チームだったので、優勝やメダルといったものとは無縁でした。

そんな団体競技に嫌気がさしていたのもあり、努力した分結果が出たり、サボった分言い訳できない部活に入りたいと思っていました。個人の力を試せるスポーツでありながら、やっぱり団体戦もあるスポーツが良かったのと、男なら一度は強くなりたいという思いもあったので、周囲の反対なども押しきり、まったく今までのスポーツ経験とは違った柔道部への入部を決めたのです。

いざ柔道部に入ると、まだ柔道着もないので新入部員達はジャージのままで、道場の隅っこでひたすら受け身の練習が始まりました。来る日も来る日もひたすら受け身の練習で、やっと新しいことを教えてもらえると思ったら、また違った受け身の練習・・・
毎日畳を何百回、何千回と叩いていたので慣れるまでは手の平も痛くなり真っ赤っかになっていたのを覚えています。

それから少しずつ基礎的な事を教えてもらい半年が過ぎた頃、白帯だった私は強制的にある大会に参加させられました。段外選手権という白帯だけが参加できる大会で、京都府下の白帯の高校生が集まり各ブロックに分かれ、優勝または準優勝で黒帯になれるという大会です。
体重別ではない無差別の大会なので、記憶では当時まだ167㎝50kg台だった私は、ほとんどの人が大きくて勝てるなんて思ってもいませんでしたし、怖くて足が震えていたと思います(笑)。
しかも、受け身と足払いを少し覚えた程度で得意技なんてありませんでした。

そうこうしているうちに心の準備もできていないまま試合の時間がやってきて、そのあとのことは全く覚えていませんが、結果はまさかの全て一本勝ちの全勝優勝を決めたのです。白帯だけの大会で、しかも自分が仕掛けた技ではなく全て返し技でしたので自慢できるものではありませんが、この時が人生初の優勝、人生初のトロフィーを頂けたことにすごく嬉しかったのを覚えています。

それからはまぐれだとはいえ黒帯になってしまった自分が、白帯に負けるのだけは恥ずかしいと思い、ひたすら強くなりたいと練習に明け暮れました。選手としては、オリンピックで3度の金メダルを獲得された野村忠弘選手に憧れて、擦り切れるまで録画した試合のテープを観ていたことを覚えています。

この時も柔道家なら誰もが知る名作「柔道部物語」という漫画にはまっていました。いま思うと、小学生の頃から本当に漫画大好きっ子でした(笑)。漫画の内容は、高校から柔道部に入った主人公が全国制覇を成し遂げるといった話。本当に漫画の中の話ですが、その当時は自分を主人公に重ね、ただひたすら強くなることに夢中でした。

ちなみに根拠もない話ですが、私の通っていた高校の柔道部には「柔道部物語を読まないと黒帯になれない」といった言い伝えまであったぐらいです。実際、唯一最後まで読まなかった同級生だけは白帯のまま卒業しましたので、私は今でもその迷信を信じていますが。。。(笑)

このように柔道に夢中だった高校時代は、小さな大会でしたが、優勝や最優秀選手など、今まで経験したことのない、たくさんの経験をすることが出来ました。

お世話になった丁稚奉公時代 〜その1〜

専門学校へ進学することは決まっていたものの、高校卒業後の1年間は専門学校へ進学するための準備期間でした。車の免許を取ったり、アルバイトをしてお金を貯めたり、受験勉強をしたりして過ごそうとしていた時に、「専門学校に入る前に助手としてうちで働いて勉強してみないか」と、中学生の頃にお世話になった先生から声をかけて頂き、こんなありがたいことはないと、二つ返事で働かせていただく事になりました。
しかし、今思うと当たり前ですが、専門学校に入るまでの1年間は患者さまの身体を触らせてもらうことはなく、ただひたすら掃除や電気の取り外しなどの雑用の毎日でした。

もちろん到底生活なんてできるお給料もいただけないので、深夜のコンビニ、飲食店、引越し屋、土建屋、解体屋、トラック運転手、プロレス会場の警備員、百貨店の什器搬入搬出作業など・・・。この時は学費を少しでも貯めるために、本当にいろいろなアルバイトを経験させてもらいました。修業、学業、アルバイトで2日3日の徹夜は当たり前、という多忙な日々でしたが、無事に柔道整復師の資格取得後も働かせていただき、計7年お世話になりました。

お世話になった丁稚奉公時代 〜その2〜

さらに治療家としての幅を広げるため、鍼灸師の学校に通いながら2人目の師匠の元でお世話になりました。2人目の師匠とは、元々勉強会などに参加させていただいていたので数回お会いしていたのですが、たまたま近所の道端ですれ違った際に…

私:
「あっ先生!お疲れ様です! 」

院長:
「おう」

私:
「先日は勉強会に誘っていただき本当にありがとうございました。また勉強会があれば是非行きたいので、誘ってください!」

院長:
「おう。また誘うわ!」

私:
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします。」

数メートル歩いたところで立ち止まって振り向き

院長:
「あっ、そういえば今おる奴(弟子)来月で辞めるんやけど、良かったらうち来る?」

私:
「えっ、いいんですか!?行きます!行かせてください!」

院長:
「じゃあまた連絡するわ」

と、まさに「YOU、良かったらウチこない?」という、ほぼジャ○ーズの誘い方と同じでした。

働かせていただくようになったきっかけもさることながら、働かせていただいてからは全てが新鮮で衝撃的でした。

今までの経験が一切通じない、治療用語なのに何を話しているのかも分からない、英語で話しているのかな?って思うほどでした。また、診療後に開催していただく院内勉強会は深夜3時4持になることも当たり前でしたので、最初のうちは毎日いっぱいいっぱいだったのを覚えています。しかし、毎日気づきや学びがあり、大変充実した3年半でした。

この頃は個人的に出張整体やトレーナーとしての活動も積極的に行っていましたので、私自身、治療家として一番成長させていただいた時期だったと思います。

10年間の経験を形に

私は10年間の修行中に2人の師匠にお世話になりました。

1人目の師匠には、人としての「心」
2人目の師匠には、治療家としての「技」

本当にたくさんのことを教えていただき、学ばせていただきました。私の治療家としてのベースは間違いなく、2人の師匠のおかげです。

そして最後の1年半は分院長としての経験、整形外科での臨床も経験し、レントゲンやCTなどの読影、骨折や脱臼の整復やギプス固定など、たくさんの経験をさせていただきました。

たく鍼灸整骨院
そんな経験を基に、私が理想とする思いを理解し賛同してくれた副院長の岡田先生とともに、2013年7月1日、京都市左京区下鴨の地に「たく鍼灸整骨院」を開業させていただきました。

たくさんの患者さまで溢れかえるような「地域No.1の治療院」ではなく、困った方々にとっての駆け込み寺のような「唯一無二の治療院」、治療家でありたいと、私は思っております。

あなたにとって「最後」の治療院、「最高」の治療院でありますよう、全力でサポートさせていただきます。

たく鍼灸整骨院 院長 李拓哉